面倒な寒い季節




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確定申告の準備

何年も申告をしているのですが、期限付きで尚且つお金を支払わなければいけない というのが気を重くさせているのだと思ってます。今年から家内の分と二人分を申告するので、手間は2倍に。また 毎年のことですが、会社の決算月が12月なので、この処理も含めると3件分の税務申告が重なり12月から2月末くらいは、ズ~と思い気持ちです。会社の決算が漸く税理士から連絡があり、納税額が決まりました。なんと、私の様な個人事業に毛の生えたような法人事業主が60万円も支払うそうです。これが頭の痛い最大の原因です。毎年分割で支払っているという有様です。まあ、支払額も決まったので、次は税金を支払えば、それで終わりますので、次は個人の確定申告です。これも下案は両名分できていますので、こちらは提出し、税金を払えば終わるでしょう。感覚的に言えば、集計をしっかりして、お金を払えば終わる という感じですね。国民全員に課せられた「ミカジメ料」なのかと思ってます。

明日は 昼からシングル練習

2時間コートを取ってあるので、十分に練習できます。テニス・シングル会のメンバーが増えて、メンバーは豪勢になって楽しみです。一方で、練習量が増えて、私は着いて行けるのか?という不安も抱いてます。でも、この程度のこと乗り越えなければ、乗り越えることが出来なければ、外の試合で勝つことはできないでしょう。昨年の後半から練習量が増え始め、今では週に3日 又は4日も練習日が出来ています。

水仙を見に 淡路島へ

3週間振りに淡路島へ、今度は日帰りで行ってきます。水仙も見るのが目的なので、天候が悪ければ中止です。ホテルを予約して行けば楽で良いのですが、その日の天気が分からないので日帰りにしました。自由な時間をタップリとれば、天気の良い日に出かけ、そのとき空いている良いホテルがあれば泊まれば良いのだな~~。そんな気儘が許されることに気付かなかった。

感性が変わって来ている

昨年なら興味を示していたことが、今は其ほど興味がなくなって来ている。何故なんだろう?テニス環境の性なのか?金回りの性なのか?自分では分からない。もっと前なら、重苦しい気持ちの逃避から格安別荘を調べることが楽しかった。今も興味はあるが、其ほどでもなくなっている。仕事の行き帰りにカフェでパソコンに向かってブログを書くのが気持ちの整理になり好きだった。今でも好きですが、熱が覚めてきている気がする。テニス練習会で忙しくなって体が休息を求めているのだろうか?私はなにか1つのことを極めていくのが好きなタイプだ。と言いながら、今までに極められたものなど何も無い。でも性格は然程変わってない。ところがだ、好みが変わって来ている。テニスの充実も一時的なものかもしれない。環境が維持できても、ある程度の稼ぎが無ければ、テニスすら維持できないのも事実なのにね。仕事の目処は立ってない。と言うか、今までの成り行きでやっていると言うのが現実。今まで遣ってこれたことは運が良かったと言えばそれまでのこと。20年間も自営業を続けて来て、何も掴めてないこの愚かさには自分でも関心するし、運については、良いのか悪いのかすら分からないのですが、何とか生きて来れたと言うことが運の良さを証明しているとも思える。どちらにせよ自分では分からないと言うのが事実。人生ってこんな物なのかも知れない。今はそう感じる、人生って分からないもので、生きているだけで丸儲けって言うのが答えに近い様に思える。これを基本に考えを整理し、頭を切り替えることが本来の感性を導き出す方法なのかも・・・って言うことなのだろう。だからテニスであれ、格安別荘であれ、移住であれ、仕事もそうだが、出来ていることが 丸儲け なのだろう。何にせよするためには目的がある方が良い。とくに、私のような怠惰な人間は目的無しには何もせずに、ダラダラ生き、もしかしたら廃人のような、浮浪者の様な生活を送っても、納得しているタイプに感じている。どの道を選んでも、丸儲けなのかも知れないが、私が浮浪者になったら息子に迷惑を掛けてしまう気がするので、テニスに打ち込んでいる方が良いだろうと感じる。仕事は打ち込んでも得るものが少なすぎる気がしている。勿論それは私の能力不足に起因しているのですが、この20年の結果が証明していると思えるのです。でも後1年この仕事を今のペースで続けられれば、借金の返済に目処がたつので、最低限そこまではしたいし、3年続けられれば、借金の収支がプラスに転じる。もしここまで維持できれば最高だろう。大切なことは、大切なものを維持、継続することの様に思える。一瞬にして良い変化をもたらす様な、夢の様なことが起きないことは 充分に経験済みだ。大切なものを維持・継続する毎日がベストを生み出すのだろう。年齢を重ねた感性なのかもしれないが、今の私にはそれが正しい様に思える。今までの金に束縛された経済奴隷の生活から抜け出そうとしている。奴隷の束縛が解き放されようとしている。そんな中での新しい感性が生まれようとしていると理解するべきなのだろう。経済奴隷の生活から見れば、これからの生活は憧れの非日常だったのだ。しかし、非日常に入ろうとしても、それが日常になれば、その中で 生きているだけで丸儲け のある意「虚無」が新しく芽生えているのだろう。今は経済奴隷の生活から抜けだそうとしている。抜け出した時の引き続きの虚無のなかで生き方を模索しているのだろう。そこで、私の様な怠惰な人間は 目標を造らなければ 廃人に成りかねない人間には、新しい目標がある方が良いのだと思える。それは、人生何もない「虚無」のなかで泳いでいる様なものと言うのが事実なのだと思えるからです。

虚無の中に造られた 仕組み

社会の仕組みって言うのは、先人達が虚無の中に造ってきた仕組みだったのだ。良い意味は沢山あるが、悪い意味では束縛され、高コストな生活を強いられている。高コストで便利な生活を人間が望んでいたのだろうか?私にはそうは思えない。いつの時代からか支配者層と従属的奴隷層に分かれ、支配層が従属層をコントロールする為に「便利、快適な生活を」を餌として与えていたという仮説が成り立つ気がする。この「便利・快適」が金で買える社会を作っているから、その結果高コスト生活が強いられてしまっているのではないだろうか?それにしても、虚無の中から、今の金を中心とした社会仕組みを作りあげたことは人類の大きな功績だろう。「便利・快適」から「幸福感」に目的をスイッチするべきだと思えるのですが、そう感じているのは私だけなのでしょうか? 目的を「幸福感」にスイッチすると、今の中心的存在の「金」のパワーが薄らぐ。すると、社会の仕組みも変化が要求されるのだろう。

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