テニス三昧




ロハスショップ

また一人シングルメンバーが増えた

一人減り、一人増え と言うと人数に変化はないはずなのだが、人数は増えている。既に10人は越えているが、何人いるのだろう。今日は9時からシングル練習。そして、後、クラブコートで2試合体操代わりにこなした。良い運動だ。その後自転車で池田の事務所まで約10kmサイクリング。今日の仕事の半分以上はこのメニューを消化することで終えている。事務所で仕事を少ししたものの、多くの時間は休息の仮眠。そして今帰り道で川西能勢口でのコーヒー。贅沢な生活だ。明日は、朝から事務所で昼からはシングルテニス。帰りにはマクドでコーヒーをしている可能性が高い。週に4回のテニスが実現しそうだ。何と幸せな生き方なのだろうか?これで金があれば申し分ないのだが、貧乏は変わらない。何度も繰り返しているが、貧乏だから仕事もしている。私の様な怠け者はしなくてもよければ、仕事などしない。恐らくそうなるとさらに怠惰になり幸せを感じることはできないだろう。いつか自由にと言う希望があり、希望を求めて動いているときが幸せなのかもしれない。これは本来錯覚の思想だと思っているが、私はそこから脱却できない低俗な人間なのだ。幸せ、自由、昔から言われ続けている言葉だが、低俗な人間んは、そんな高貴なものを得た事がない人間には、言葉遊びに過ぎないのかもしれない。私のこれからの課題のワードになるだろう。もともと課題であり、いまだ解けていないワードなのだけれど、今まで遠い遠い存在で夢見て、たまに真似事の自由を得て満足していた。まだまだ遠い存在なのだが、少し近づいた。そうすると答えも近づくのかと思いきや、相変わらず答えは通すぎて分からない。昼間の時間が自由時間を増やした分、夜に仕事をする時間は増えてる。今日は帰ってから家内の確定申告を進める。会社の決算。私の確定申告はほぼできた。次に家内の確定申告である。まず、これをこなしてから2021年からは会計ソフトを使って、青色申告でも65万円の控除を受けられる様にソフトの勉強を始める。私も近い将来個人事業に改変する予定なので二人分で130万円の所得控除を受けられるのだから、新たに勉強する価値がある。こんな細かなことは、気づくのだが、本来課題の自由な生き方 には切り口すら見つかってない。毎日この様な生活を送って「自由な生き方」の入り口を見つけることができるのだろうか?可能性が高いか低いかの問題ではなく、いつか気づくことがあればと思って生きていくことだと思う。人間って、いや私はそこまでレベルの低い人間なのだ。私には難解過ぎると理解できただけでも一歩進歩なのだろう。

自由な生活?

本来自由な生活ができる環境に近づいているのだが、テニスに目標を自分で決め、それに向かっていることに少しの満足を感じている。これって結局は自由を奪っているとも言える。自由になれないのだ。レベルの低い人間なんだろう。自分を追い込んで、自分を動かして、そんな生活は自由とはかけ離れていると思うが、それしか充実した気持ちを得られない。目標をなくせば自由になれるのか?そうかもしれないが、充足感が得られない。奴隷生活からは抜けられない。奴隷生活しかしらない人間は高級な生き方を夢には見れるが、できないのだろう。そう考えると、平安時代の貴族は幸せだったのだろうか?生まれたときから、何もしなくても生きていける身分というのは、もしかしたらとてつもない苦悩だったのかもしれない。年金生活と言うんは晩年に、奴隷生活者に送られた、制度上の夢だったのかもしれない。夢は遠くで眺めているときが幸せで、その中に入ると空虚なものだと言うことで、奴隷に送られていた夢のメッセージなのかもしれない。歪んだ考えかもしれないが、そんな一面はある。南国で自然に育つ木の実を食べて生活できる環境が、この世の天国だとゴッホやゴーギャンは感じていたのかもしれない。しかし、彼らも絵を描くと言う世界では自分を追い込んでいたのではないだろうか?そんな世界で瞑想にふけって、後世に名を残すこともせず生きていた人が一番自由人だったのかもしれない。そんな人間が南国にはいるのかもしれない。それに比べ雪国の食べ物など存在しない環境で生きている人々は、常に追い込まれている。環境からくる大きなさだと思う。日本など四季のある地域に住んでいる人間には、もしかしたら、両面を理解できる創造力が身に着くかもしれないが、南国、北国ともに極端な環境で生まれ育つと違う感性しか身に着かないんかもしれない。人間の幸せとは、何なのか、また疑問で終わってしまう。

 

頭の切り替えができない私

切り替えと言うと聞こえが良いが、実際は、何をすれば良いか分からないので、中途半端ではるが、今までの延長半分とテニスを半分、これが私の拘束された時間と考えるのが、私の能力では精一杯だ。これらの拘束時間でも余っている時間は十分にあるし、時間調整も可なり効く。そんな時間が私には程好い自由時間なのだ。どう考えても正解からは遠い回答なのだが、私には、今の私には、ここまでだ。創造力や発想力が乏しいのだろう。自由な生活が楽しめない。拘束時間を自ら造って、合間の自由時間にカフェの窓際で景色を眺める。それが私の寛ぎであり、幸せなのだ。貧相な人間だと思う。貧相や貧乏の変え方はあるのだろうか?急激な変化であれば、それは不幸になってしまう気がする。穏やかな変化で幸せ感を膨らます方が重要だと思うが、恐らくその方法では時間切れになる気がする。自由な生活を探すなら、南国の地へ行き、自由人を見つけ、その人の考え方を知ることが近道かもしれない。でもこの考えでは自由人は南国にしかいないことになる。北国の人は不幸なのか?そんなバカな仮説になってしまう。自由な生活を夢見て、それが人間本来の生き方だと仮定して現実を見ると、不合理で埋め尽くされている。しかし、自由な生活の仮定が正しいのか?そんな疑問が沸いてくる。私のレベルで幸せ度を上げるには、拘束と自由のバランスが大切だろう。拘束と言っても、目標を持った拘束だ。例えば、私は貧乏だから、自分の遊ぶ金を稼がなければいけない。またテニスであれば ジョップ大会でのポイントを稼ぎ、ランキングを100位以内にすることだ。そのために何をしなければいけないか、この具体策が私を拘束することになる。

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